平和への願いを込めて歌い続けるソプラノ・下垣真希。原爆で命を落とした叔父が永井博士の家に下宿していた縁から「長崎の鐘」を生涯の曲と定め、戦争の悲惨さを訴えてきた。心情を吐露する語りを添えたリサイタルの聴衆は、彼女の真摯なステージに接し、感涙にむせぶ。平和への祈りを切々と綴る「ヒロシマの祈り」や「一本の鉛筆」に加え、日本人の心の琴線に触れる歌を選んだ新録音。永井博士の詩に自ら曲を付けた「あの子」でのしみじみとした表現にこうべを垂れる。聞き終わって深い感動を覚える至誠の歌唱である。
天性の演技力とエンターティナー振り、「平和・愛・生きる」を主題にした真摯なメッセージが多くの聴衆を感動させ、各方面から絶賛されている。(中略)懐かしくてどこか新鮮。これらの歌たちに託されたメッセージを真摯に受け止めたい。
下垣さんの初CDは(永井隆博士の)50年目の命日、01年5月1日に出来上がった。皮肉にも9月11日には米国同時多発テロが起きた。「戦争は常に忍び寄ってくる。平和を訴える音楽活動をしなくては」と心に決めた。(下垣さんが)父から託された永井教授の「平和を」の書は、最新CDにも印刷した宝物だ。

私の家には、「平和を」という書がかかっていました。「長崎の鐘」の原作者、永井隆博士が瀕死の床で、渾身の力を込めて書いた命のメッセージです。
博士は、原爆で愛する妻も自分の健康も失い、幼い子供たちを残して死にゆく運命にありながら、それでも人を許し、自分のことのように愛そうと伝え続けた、祈りの長崎の象徴。この書は、原爆で亡くなった私の叔父が、博士のお家に下宿していたご縁で、いただいたものでした。
しかし、東西に分断されていた冷戦時代のドイツで暮らすことがなかったら、「平和を」のことばの重みを、真の意味で理解することはできなかったかもしれません。社会主義の国々に一番近い西側の国、一触即発の緊張感がみなぎる旧西ドイツで、今まで当たり前に享受してきた平和が、いかに多くの犠牲の上に成り立っているか、そして戦争がどれほど人々を苦しめ続けるかを、身を持って体験し平和な現代の日本で生きられる幸せをかみしめました。
その後、冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊するまでの不安定な転換期に、暴力ではなく平和的な話し合いによる解決を見つけようと、人々に訴え続けたのは音楽家たちでした。彼らはまさに、一滴の血を流すこともなく成し遂げられた、ドイツ統一の立役者と言えるでしょう。その姿から、愛や平和、命の尊さといった人類普遍のメッセージを伝えることの大切さを、教えてもらったように思います。
そして帰国後、初めてのCDに、「長崎の鐘」を収録。そのことがきっかけで、叔父の最期を看取った叔母が語ってくれた事実は、あまりにむごく悲しいものでした。
昭和20年8月9日、長崎医大で学んでいた叔父は、大学構内で被爆ました。奇跡的に生き残りはしたものの、衣服は焼かれ、顔も唇もはれ上がり、変わり果てた姿で、それでも叔父は、ふるさとの島根県まで戻ってきたそうです。わずかに開いた口の隙間に、糸に浸したわずかな水をたらし込み、必死で生きる努力を続けたといいます。ただただ、生きたかった・・・。しかし1週間後力尽き、17年の短い生涯を閉じました。
それを知った直後、アメリカで同時多発テロが発生し、世界が憎しみの連鎖に巻き込まれていきました。そのとき、永井博士の愛のメッセージと、生きることすら許されない戦争の残酷さを伝えなければと、突き動かされるように始めたのが平和のコンサート活動です。様々な企画をしていくうちに、歴史に埋もれかけたすばらしい歌に、たくさん出会いました。
同時多発テロから10年、そして永井博士没後60年の節目の年に、こうした後世に残したい歌を、自分自身で作詞・作曲した歌とともに、「平和を」というアルバムに収録し、完成させることができたのは、この上ない喜びです。
このCDは同時に、未曾有の大震災で悲しみに沈む多くの人たちへ、捧げたいと思います。廃墟の中から、希望を失わず立ち上がった先人たちの思いが、皆様の勇気となりますよう。そして、歌に託されたメッセージが、生きる喜びと、平和を強く願う思いとなれば、これほど幸せなことはありません。


長崎で被爆した詩人、福田須磨子の詩。悲しみに沈む人たちへの応援歌。
映画「ビルマの竪琴」から。歌は国や民族を超え人々を励ます。
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